教授法

WHERE THE WILD THINGS AREを読んで

ことばを愛するみなさまへ

 

こんにちは。PunnyEnglish英語・スペイン語多読教室を主宰しております「ゆかりん」です(笑)

 

2022年11月29日(火) に「しあわせな読み聞かせ、がんばらない多読」主催の英語リーディング・サークル Willy-Nillyが開催されました.

選ばれた今回の絵本は、『Where the Wild Things Are』Maurice Sendak 作、出版は、Harper Collins 1963年初版です。

 

(ブログへのリンクはこちらhttps://tadoku-yomikikase.amebaownd.com/posts/39509741

 

この絵本は子供が小さい時に読み聞かせをしようとしましたがあまり読みたがりませんでした。私自身も、有名な絵本だし、お友達でもファンがいるし、と思って読んでみたのですが、ちょっとその良さがわからない。絵も言葉ももちろん、高尚だとは思うけど、その面白さがぴんとこない。かいじゅうはちょっと気持ちが少し引くくらい、怖いと言うか、気味悪さがあるというか。。子供がお仕置きとして部屋に閉じ込められる設定も、納得がいかない。。なぜこれが人気なんだろう。。と不思議で。自分がそういう気持ちなので、生徒さんにお勧めしたこともなかったです。

 

今回の読書会でこの絵本が選ばれたので、前日に読みました。多読をして、絵本を沢山読み慣れ、絵をじっくり見ること、など、想像を膨らませて読めるようになっているおかげか、前よりは少し楽しめました。かいじゅうが何頭身か、なんて指で測ったりして。その等身にもきっと意味があるんだろうな~と思いながら。でもまた読みたい!あぁなんていい絵本!という感激はなし。ふ~ん、うん、絵がすごいなぁ、という感じ。

 

読書会当日。主催者が読み聞かせをしてくれて、そのあとでグループに分かれて45分その絵本について語る。グループには私を含めて4名。皆さん聞くと、「この絵本が大好きです!」というファンはいなさそう。でも大人になってから読むと感動した、はまったお子さんがいた、という方たちも。でもなぜ人気?という私と同じ疑問が空気に漂っていた感覚です。

 

でも話していくうちに、色々なことに気づきます。余白の使い方、かいじゅうが象徴しているもの、お話が最初と最後で繰り返されていて、なんとなく最初に戻る感じがある。月の変化、などなど。

 

絵を見るときに、私は作家の気持ちにできるだけ近づこうとします。最初は白紙の状態。白紙の状態から、なぜそれらの絵を描こうと思ったか?そこにはきっと作家の中で伝えたいこと、表現したいこと、の理由があると思います。

 

それで今回もMaurice Sendak氏がどうしてこういう絵本を作ったのか?というところに戻ろうとしました。まずは彼はアメリカ人なので、あぁ、この悪いことをしたら閉じ込められるというのは、お仕置きの一つとしてある、”You are grounded!”のことだな、と。。子供は学校以外の外出を禁止され、友達と遊ぶことはできません。よくドラマや映画でも見かけると思います。反抗期が始まる10代でやられるようです。日本ではあまりやらないので、アメリカの文化の一つに触れることができますよね。

 

きっと作者はこういう経験があったのかな。もしくは、それをされた子供たちへの本かな?と。というのも、お話の内容は、そういう子供たちの気持ちが救われるような内容。主人公Maxは旅に出て楽しい思い出を作る。かいじゅうたちとも仲良くなる。

 

その読書会のあと、私は数日間考えました。思い出したのは、かいじゅうたちとのお別れのシーンです。かいじゅうたちは主人公Maxとのお別れを惜しんでいます。かいじゅうたちは、Maxがいたずらをして親に向けて言ったひどい言葉と同じ内容の、”We’ll eat you up!”を発する。でもそのあとには、僕たちは君を愛しているから”- we love you so!”(両文で、「たべちゃいたいほど愛してるから」という意味)、という言葉が続く。

 

私はそのかいじゅうたちの表情を思い出して、あぁ、温かいな、と、温度を感じました。Maxは満足した表情で去っていく。あぁ、彼は、解決したのでは。きっと、かいじゅうたちに象徴されている、自分の「悪」の部分を、認めて、「愛」を感じたのかな、と。自分への愛、または家族への愛、家族からの愛、など。。

 

最近私は「自愛」というものがとても大事と思っていますが、やはり「名作」と言われるものなどは、色々な表現方法を用いて、このテーマを扱っていることが多いのではないかなと思っています。実は「愛」はもうそこにある、自分の中にある、はては自分が作りだせる、というような考えですね。その「愛」がある場所に関しては、それぞれの作品で微妙なずれ(・・)はあるかもしれないですが。「かいじゅうたちのいるところ」の、かいじゅうは、「自分の一部」であり、Maxは想像の旅に出ることにより、自分の中にある「愛」に気づいた、というのが私の解釈です。

 

おそらく英語学習者のみなさんは、ではそれで、英語習得はどうなの?と思うかもしれません。「なぜ絵本なの?」とたまに聞かれますので、私自身の習得についてになりますが、その面についても記していきたいと思います。

 

まず子供に読み聞かせしようとした時は、文学作品的な絵本にそれほど慣れていなく、わからない、読み慣れない単語も少なからずあり、正直読みづらかったです。新しい言葉は入ってきません。何より「この本は読みたくない」と子供にせかされるので、絵も文も味わう時間もなかったというのもあります(笑)

 

今回の読書会の前日(2回目)は、最近絵本に慣れているということもあり、はっきりわからない単語は、絵や文脈を見て想像しました。なんとなく、こういう意味合いだろう、と感じましたが、まだ使えるレベルではありません。

 

3回目は読書会当日にて、開催者のお一人が楽しく読み聞かせしてくれました。そしてグループワークの中で、引用などをして、さらに読み込みます。ここでは、絵や作家の気持ち、言葉、ストーリーにかなり寄り添うので、本と私の関係がとても深くなっています。

 

結果、最初に私の中に「お客さん」レベルで(すぐ帰るだろう)いた言葉たちは、私の血となり肉となり、絵本の中の世界のMax、かいじゅうたち、そして見えないお母さん(?)などと共に私の中に生き始めています。温かかったり、冷たかったり、温度と共に、私の中で成長しています。そして、私はこれらの言葉はきっといつか、私が発したい時に、隠れたMaxやかいじゅうたちの存在と共に、私の口や、文章で出てくると思います。そして、おそらくそれらは形を変えて私の表現するあらゆるものの中に出現するのではないかと思います。